山﨑

 

 はい。

 

中島

 

 伊波さんの作品ですね。じゃあレジュメの二枚目ですね。山﨑さんにまず五分程度お願いいたします。

 

山﨑

 

 伊波さんの連作「サマータイム・ガールフレンド」について話をさせていただきたいと思います。短歌というのが発見をして瞬間を切り取るということを仰るかたがいまして、あるいはまた別に虚構の世界を創り上げる大きく二分することが正しいかは別としてあった場合に、伊波さんの作品に関して非常にその、創る、創作をする意欲の高い作家性を持った作品だなと感じました。高品質の作品を一つ一つ創り上げる。という形がしまして。例えば「サイダーに差し込んでゆくストローがこの惑星の傾きをなす」というのは一見するとストローがサイダーに差し込んで惑星の傾きを、地軸の傾きを、発見しているように、いわゆる見立ての歌としてそれを創作として作ってらっしゃる。「デネブ、ベガ、もう一つがわからないまま僕らの星は夏を濃くする」という作品に関しましても、そういう、なんと言うんでしょうね、ポエジーの世界、世界観を構築して作品を作ってらっしゃる。読み進めていく中で、非常に均質的なものを敢えて作ってらっしゃる。それを一番感じたところはですね、定型意識ではと思いました。伊波さんの作品全てではないですが、ほとんどの作品三十一音の定型に当てはめてあります。それは、時として助詞を省略してでも定型に当てはめる、ということは短歌という枠内に収めることによって何らかの詩情を生み出すことを創作している。定型からこぼれてしまったものというのは敢えて省略してでもご自身の作品は完成させたいのだというこれが非常に出ていると思います。それがある意味は不自然な感じが致しますし、ある意味は何でしょうね、既製品のような、人工のような匂いを感じてしまうところがあります。だが、それはこぼれてしまった部分は、叙情の行方は、どうなのかな。これは賛否の分かれるところであろうという風に思います。で、レジュメをそのまま追ってもしょうがないのですが。

 

中島

 

 でも、言っても残り三分もないよ。

 

山﨑

 

 はい、そうですね。やはり人工的な事物への興味があげられると思う歌はこの「沈黙を破って君はカルピスのCMみたいに笑ってみせる」という歌です。これ非常に面白いと思ったのは、カルピスというのは多くの方にとって、カルピスの清純性であるとか、純粋さというのはカルピスの会社が、カルピス社が、カルピスという商品を売るために作り上げた企業イメージですよね。ややもするとカルピスの人工的な乳飲料を、他社と差別化してでも売るためには清純さとかをある意味作り上げた。百年くらいの歴史の中で作り上げた。ということで、「カルピスのCM「みたいに」」ということなので、読者とコンセンサスが取れている。そこで読者との相関関係というのは成立しているということを見越した上で、一首の歌として作り上げている。っていうことで、イメージを誘導することで歌を作り上げているということなので、ここに作者の創作意識、歌を「創り上げる」、作品として創り上げるんだという意識を感じます。それがですね、他のミュージックビデオや、広告イメージと非常に接近している印象がいたします。それは消費物として短歌、もともと企業の広告イメージは消費物ですから、消費物としての短歌をある意味逆手にとって、示唆しながらも、自身は一首として完結させていくんだという非常に読みを誘導するところがあるそれが新しいと言えば新しいですし、何でしょうね、著者の匂いが完全に隠されている、作品と作者が完全に分離されている状態の中で作品が、一首、屹立している状態である。それをどのように読み解くかというのが、非常に難しいと思いますし、私はこの点においてギリギリではなくてですねむしろギリギリの枠内にきっちり収めた歌と思います。とりあえずは以上でございます。

 

中島

 

 はい。ありがとうございます。今まず問題意識として確認したいのは、伊波さんの作品は高品質の作品を作るという意識があるよねということ、ただ高品質という品質が高いことを言うためには一つの基準が、軸が、いるよねということですよね。その軸としての定型意識というものがまずあって、そこに強く乗っかっているよねということは理解できたんですね。で、この次に、定型意識にこだわっているというのが人工感に繋がっている、不自然に感じる、という理解でいいですか。

 

山﨑

 

 はい。その通りです。

 

中島

 

 なるほど。そこにさらに要素として人工的な事物が入ってくるから内容面でも形式面でもなんとなく人工感や違和感があるということですか。

 

山﨑

 

 そうです。

 

中島

 

 わかりました。じゃあこの点について、堀さんに振る前に、まず秋月さん。ちょっと振ってみていいですか。定型意識ってそこまで人工感や不自然感を生み出すものなのかって思います?

 

秋月

 

 要するに、ちょっと言葉に無理をしても定型に収める場合?

 

中島

 

 うん、まあそこまで不自然や人工感って感じるものなのかしら。

 

秋月

 

 感じないですよ。

 

中島

 

 伊波さんの作品については? どうですか?

 

秋月

 

 うんとね、そんなにモノにしている感じしませんけどね、普通に。

 

中島

 

 ありがとうございます。堀田さんはどうでしょう。

 

堀田

 

 伊波さんのに限らず定型っていうのはやっぱり不自然、というのが前提にあって、結局普通の会話と詩がどこが違うかと言うと、つまりどこかに不自然なところがあるからそれが詩だとわかる。ただ単に歩いたり身体動かしているというのと踊りがどこが違うかというとつまりここにはこの動作はないだろというのがあるから、これを踊りだと認識する。まず、言葉の遣い方とか普通じゃないところがある。二つ目に自由詩と定型詩の差というのがあって、さらに韻律があって、そこに不自然な要素が入るのは明らかなので最初から人工で勝負している。

 

中島

 

 なるほど。お二人に振ったのは運が良かったのですけど、いわゆる定型というものに慣れ親しんだ中でお二人とも期せずして俳句も短歌も作ってらっしゃる方に当てたのですけれど、自然言語としての不自然さというのと、定型意識というのが全般的に浸透している中での自然さ、不自然さというものに議論の差があって、山﨑さんはここで不自然とおっしゃったのは自然言語ということ? それとも定型意識、つまり、堀田さんの仰った定型というものが自然言語に合わないからという認識?

 

山﨑

 

 例えばロックの歌詞があります。 ロックの歌詞を完全に見捨てたから現代詩は非常に難解になったんだとおっしゃる方がいます。では、ロックの歌詞と短歌はどこが違うのかと考えたときに、Jポップの歌詞と伊波さんの作品とどこが異なるかといったときに、それは定型感だと僕は思うのですね。つまり伊波さんの作品から定型感を崩してしまったら歌詞とかあるいは一行詩に担保されるものになってしまう。ところが伊波さんのお作りになったこの連作は短歌をお作りになりたいわけで、ではそれを担保するにはどうすればいいか、定型感を遵守せざるをえなかった。だから「熱帯夜ライブハウスの壁越しにベースラインを背骨で聴いて」という短歌になった時に、これに助詞を補った場合に短歌として受け入れられるかということを「(編集者註発言者不明)すみません、助詞を補うとしたらどこに?」「熱帯夜「に」」とかですね。例えば「ユニバース「を」ひとつ浮かべて」とかですね。一般的に考えれば助詞を省略していると考えるのが自然だと思います。なので短歌というものを、定型を遵守することで短歌として成立させているという意識が高いと私はみるのです。

 

中島

 

 滝本さん。

 

滝本

 

 はい。助詞の省略ということでこの三首を挙げられているのですけれど、助詞の省略でも意味のある省略と比較的スルッとしたものがあるじゃないですか。その点ここはそんなに助詞の違和感はないと思うし、むしろ「熱帯夜」で切れていると思うから助詞を補う必要はここではなくって、「ユニバースひとつ浮かべて」も一旦ここで一呼吸あると思うので、また「分けあえるもの持つことのたのしさ」もそんなに、ちょっと文語っぽい気はするけれど、これを助詞の省略とまで言っちゃっていいのか。私は疑問です。

 

中島

 

 堀田さん、どうですか。

 

堀田

 

 これは幾つかの問題が絡んできて、ひとつは厳密に57577にしたいから助詞を省いているのか、リズムのために省いているのか。助詞を省けるものは省く技法的な話であって、57577の遵守とは必ずしも同じではない。定型意識が自然にあった、まあ歌人なので、歌人と言ったら自然という世界になってしまうのですけれど、その中で揺らすというのがあって、字余りだろうが、句跨りだろうが、句割れだろうが、ありとあらゆる、まあ、一字空けだろうが、私が思うのは自然であるものを自然でないものにしたのでは。もともと人工的であったものを思い出させるというのがあるんじゃないか。自然だと思ってしまっているのだけど我々は。

 

中島

 

 歌人という読者を想定するがゆえにもう一度自分が歌人であることを思い出せという。

 

堀田

 

 本当に厳格な人は初句が六音や七音だとすると堪えられないという人といや、これは定型でという人でわかれます。

 

中島

 

 ありがとうございます。あと実は一分半くらいなんですけど、睦月さんに振ってみていいですか。

 

睦月

 

 さっきからの山﨑さんのお話し非常に鋭いなと思って聞いていました。伊波作品に対して「品質」とか「製品」という言葉で言い表している、伊波作品の評をされている。ただ、定型意識がJポップ的なことに関しては私はあまり分からなくって、ただ何らかの定型観の違いはあると思いますね。

 

「動かない」気がするんですね。定型、伊波さんの作品って。それは、ここにも書かれていますけれど、既視感とか製品とかの印象。既存のイメージを多用される作者だと思うんですけれど、そういったところのほうが私は伊波作品に対するイメージの人工観のようなものが、既存のイメージのほうが強いんじゃないかな。定型意識というのが、人工観を与えるというのはちょっとわからないんですけど、ただ、そこは深く聞きたかったです。面白い視点だとは思うので。