滝本

 

 ありがとうございます。特に試みということに関して言えば総括に深く関わってくるところでそこで議論できればと思います。私の担当する中島さんの方に移りたいと思います。私は中島さんと西巻さんの担当なのですけれど、ある意味二つの連作を一つの立体鏡という枠で捉えてみようと思って用意してみました。で、なんでこう言うよくわかんないことをしたかと言いますと、自分の本業の方が切羽詰まっていて、引用しましたエルンスト・ユンガーという人の立体鏡的認識を今まとめているんですけれど、その関係で歌詠みながらユンガー読んで、ユンガー読みながら歌を詠むという、なんでしょうね鏡の反応みたいなことをやってまして、でもこれを読みますと案外中島さんの作品は読みづらさがあると思うんですね。でももしかしたら別の見方ができるんじゃないかと思って用意してみました。で、まず立体鏡とは何かということを説明しますと、皆さん多分一回くらい見たことあると思うんですけど、右と左にちょっとだけ違う感じの写真、ただ基本的には同じものを置いて、いろいろ器械によって違うんですが、それを覗き込むと。それが3Dとして浮かび上がるというのを多分観たことがあると思います。そういう基本的にそういう感じのものを立体鏡と呼びまして、だいたい19世紀くらいの市民階級の人の楽しみとして、使われてきた。それがだんだんパノラマ感というのがあって、覗き込むと深いところから周りの景色がぐるっと見られるそういう視覚とかも得られるある意味3D的なものなんですけど、ユンガーという人の立体鏡学というのはもうちょっと変わってきまして、ちょっと引用を読みます。「ここにおいても立体鏡学は、放浪者の立体鏡学は重要である。われわれには二対の目が与えられている。すなわち、肉体の目と精神のそれである。この両者をもってして、人間の顔がその形式を髑髏に負うように、その刻印を象形文字の押印に負うている世界の観相を、はじめて適切に眺めるのだ。」なんかなんだか何をちょっと難解な言い方になってますけど、つまり、ユンガーのいう立体鏡学というのは、一般的なあらゆる現象を肉体の目と精神の目、両方をもって見ることで初めて真相本質というのが見れるというところから始まっています。で、それをどういうふうに考えてみるかというと、中島さんの場合は一つタイポグラフィーと言うんですかね、文字の配置といいますか、それと歌の内容そのもの、それと同時に歌書きと言って良いのか、欄外にあるメモのようなもの一応詞書ということにしますけれど、この三つから基本的に成り立っているんです。これも歌と詞書というものプラス配置という二つ、あるいは歌と配置プラスαとしての詞書、こういった立体的な視点が求められている。何れにしても、ここに求められる目の運動っていうのは普通の短歌を観るときとは違ってきて、それを詞書だったら分けて見るとかしますけど、そうじゃなくって、どちらかというと同時に視野に入れるような、ある種散漫な見方というのがある。要求されるんじゃないかと思います。例えば岡井隆さんとかは、詞書をやって、しかもかなり長く書いてそのあとに歌がある。そういうふうに分けたときというのは、それは歌と詞書それぞれ独立して両方ともある意味集中して両方読まなくちゃいけないという見方が要求されると思うんですね。ただ、ここでは集中というのは一切求められていなくて、もはやここの詞書というのは、欄外のメモ書きに近いものとなってしまって、しかしそのあたりに作者の心中をこぼすような情熱さもあったりなかったりする。で、そういう意味において、時に詩になって時に詩にならない不思議な、ちょっとどう扱っていいのか難しいところで作られている。あえて言うならばそれは、息の、ついこぼれてしまう息のようなところはあると思うんですね。ではそういうふうに見た時にどんなものが見えてくるかというと波のイメージと直線のイメージ、この二つのイメージがあって、これは歌の配置の仕方から浮かび上がるものがあるし、言葉そのものとか普通にモチーフとしてすべてからみあって波というものが出てくると思います。で、波も直線ってのは結局のところどこかで緊張関係にある二つ、後述しますけれど、見えてきます。で、波の一つは配置ですね、形状の仕方。それは例えば最初に挙げましたように、ページ数でいうと34ページ。35ページの、レジュメの方再現できなかったので普通に挙げていますけれど、「ボーダーのワンピースあるいはカットソーの肌理に生じた波を爪弾く」そのまま波という言葉も出てきています。で、なんとなく文字の配置も海岸線というか漣のように見えてくる。さらに、下のところ欄外を見てみますと、「2016年5月16日サイクス・ピコ協定締結から100年。境界例の観察から110年。」つまりここに書かれているのは、一方で国境とか境界線のイメージなんですよね。で、ある意味政治的な波と言いますか境界線というのは一見すると直線のように見えるんですけれど、そうではないんじゃないか。それは、ある意味国と国との二つの現象の間において、陸と海との間において海岸線に波ができるかのように、常に変わっていくものであって、そういう意味でここのところで、この一首を読む時も我々というのは先ほどの肉体と精神の両方を求められるように、そしてそれを散漫に求めてくるようにして、読むことを要求してくる。そうすると境界線というのは、確固としてあるようでいて、天道的であるそれを観察として表れている。そういう意味で国家と国家の波打ち際というのも境界にあって、それがここで波打っているのであるけれども、例えば日本の竹島の問題のように、それはちょっと爪弾けば、つまり突けば常に波立つものであるわけです。だからこそ、問題は問題として触れないそこを爪弾いて観察する政治の仕方もあって、波を波として認めたまま、一方で直線のイメージ、直線の力というのもある。で、例えばここで挙げた例以外でも我々が見ているページだと、前のページの「郵便を知ってた有刺鉄線を知ってたほかになにを知ってた」なんとなくここにも、政治的なニュアンスを感じさせてくる。しかも、なんとなく政治的な匂いも見られると。で、しかも興味深いのは、この直線配置というか垂直型の配置になっている歌というのは、ある意味端正な形での政治への比喩、喩になっているというのがあると思います。例えば、「地中海上に」の歌だとか、あとは「moiréあれ」の歌だとか、これらはそういう意味で強く政治的な今の現実への、ある意味岡井さんが昔やっていた喩としても見受けられることで、そこに対して一方で、次のページですね。「語りかけられうることばが(期待値をE(x)とする)消える」これも、さらに詞書も視野に入ってきて政治的なものへと変質していく。で、戻りまして、細かいところにかなり出てきている波形というか波の形がだんだんと、直線になって歪められていく。というよりも直線に配しているのが増えてきて、で、さらに次のページにいくとほとんど直線であったり、あるいはページをぶち抜いた「あの子とは」とか、「詰められてわれわれの」とかこういった、ページの中に書ききれないようになっていく。これはなんとなくそれまであった波の形というのも直線へと変えていく力というのを感じてしまうのですよね。で、それは何か敢えて考えてみたときに、やっぱりここの歌の一つの通奏低音的にある政治性から考えると一つのキーワードとなるのは「交点が最大数となるように直線を引け見ててやるから」この一個の歌なんじゃないかと。これもある意味、直線的に近しい斜めのさらに縦に割って。ここの「見ててやるから」この表明とも取れる、垂直の増えていく、呼応するように増えていく、直線は引かれたのか、あるいは直線にされてしまったのか疑問も出てきまして。そもそもこの歌の中の波というのはなんなのか。で、だんだん何を言っているのかわかんなくなってきたところで、ここでちょっとさらに引用のところを見てください。レジュメの方ですね。「そのようにして時代の力によって現象の海岸線に打ち上げられたものは、没落へと委ねられている。波が動きを転じて引き返すその点は、生ある形式の最も力強い刻印をあらわにする。すでに形成の繊細をきわめた描線は可視化され、いかなる筆を足そうとも過剰となるであろうほどの完結を見せている。全体はなお生の生きいきとした元素の液状の微光に満たされている。深みからの引力は、しかしこの横溢から生を吸い寄せる。そしてここに、終焉に隣接するのではなく、直接絶頂とつながって、来るべきものがはじまるのだ。」という引用を引いてみましたけれども、何が言いたいかというと、これをユンガーが使っているメタファーはいくつかある。波のメタファーはいくつかある上で成り立っていますけれども、陸と海とが出会う場所というイメージは一つ海外線として顕れている。そういうふうに思うと、この場所にユンガーとしては、第一次大戦の戦いの場とか、もっと根源的に二つの何か異質のものがであう戦いの場を意味する、だからこそ現象は没落へと向かっていく。で、そういうふうに思って見てみると、例えばここで出てくる国家だとか、EU脱退とか移民とかそういうモチーフにおいて、ひょっとして直線的に表す波を波でなくしてしまうものというのは、だいぶ歌の解釈からずれてしまうのですけれど、ある意味民主主義的な力というか、民主主義的マジョリティの持つものではないかという意味を感じます。それが、闘争の場をなくすという意味において、保身と安全をある意味近代は、信条として危険なものをすべて覆い隠すことにして結果としてできたのが市民社会であり、さらに対話というそもそも妥協の産物である政治を作ってきた民主主義というものの狡猾な意図としてのらりくらりとした言い方というのも力というものをどこかで見られている。それを配置だとかそういうことを含めて表そうとしたのではないか。あ、長くなりすぎるのでここで一旦やめますけれども、だいたいそういうところで私は配置のことと、波と直線のモチーフを感じました。質問も含めてなんですけど、岸原さん何かありますか。

 

岸原

 

 いや、もうものすごい分析で、言葉もないという感じです。何を付け加えるのもないという感じで、読み解くということ自体難しい連作なので本当に仰っているように視覚的に捉えるということが大事なんだろうな、まず。一個一個形を次々と変えていくので、変えていくたびにこちらがこれをどういうふうに捉えたらいいのだろうということが問われる、すごく。何か詰問されているような感じがして、この字体、フォントが大きさがどんどんどんどん変わっていって最後から二ページ目は「あの子とは」というのがものすごくでっかく出てきて、この大きさ自体もすごく暴力的な感じを受けますよね。最後の黒い四角「かくしごと」というところには何か文字を黒塗りにしたということが暗示されていて、今の時代にアクセスしているのかなと感じました。以上です。

 

滝本

 

 はい。形において暴力性を出すというのは印象的で、しかも内容は「あの子とは遊んじゃだめ」という政治とは別なんですけれど、これが個人それぞれにどこか根付いている広い意味の政治的な力みたいなあるいは感情と結びついているそういったものは強くあると思うんです。そのあたりからさらに睦月さんなにか。

 

睦月

 

 今回、コンセプチュアル作品が本誌の性質としてはそのコンセプトに乗れるか乗れないかというテーマを突きつけられている気があって、で、私は乗れないものが多かったんですけれど、乗れる場合何があげられるのか考えてしまって。この連作は割とやりたいことがわかりやすく、ただ何というんですかね80年代とか結構こういうのあったじゃないですか、塚本とかも表記をずらしたりだとか。塚本の時代からあるし、非常にやられてきていることだと思うんです。表記を工夫することって歌の何を貢献しているのかわからない。つまり、歌の内容だとか歌われていること歌自体と、形式、表記が合っているだろうかとか、貢献しているだろうかというのがその点ついてはこの作品はわからなくって。なので、結構、ストレスというか溜まる作品です。

 

滝本

 

 つまりコンセプチュアルなところにご自身乗れなかった故に溜まるフラストレーションがあるということですね。

 

睦月

 

 それもありますね。割とわかったけれど、その次が来ない。

 

滝本

 

 表記については確かにあるとは思うんですけれど、ただ中島さんはそういう蓄積の上でさらに一個、新たなやろうとしたかなという印象はあって、ひとつは連作の空間というものの中、もう一個は欄外に色々作ったりだとかそういうところも含めて複合的に見る目の読み方を強いる。ある意味その強いられた時にそれに乗れるか大きくある。そうですね、他に吉村さんどうでしょう。

 

吉村

 

 私もなかなか乗れなかった方で、まず一首一首のこの形にどういう意味があり、まずやっぱり読み解くうえで表記の問題、意味の問題、文脈の問題、それから文脈外にあるのかそれとも文脈とどう繋ぎあわせるのか欄外の問題、それを一首一首と連作全体で見るという、岸原さん先ほど詰問されているようにと言われたのですけど、一つ一つをどう読み解いていくかどうかにものすごく体力を使うというか、結構私そこで挫けてしまって。

 

滝本

 

 そのご意見はすごくわかって。わかったらダメなんですけど。私も多分発表じゃなかったら挫けていたと思う。

 

会場

 

 (笑)

 

吉田

 

 じゃあ喋っていいですか。試みが成功しているかどうかというのは置いとくとして、この形式、書き方自体がどういうふうに読めるかというところで。思ったのが、線が一本引いてあるんですね。で、これがページを越えて右から左に架かるタイムライン的な効果がある。で、これは同時発話の戯曲のような感じで読めなくもないかなって。というふうに思うと、一首を分解して配置していく、ことというのは発話のタイミングあるいは読者の視覚のタイミングというのを三次元的方向にずらすことができる。かもしれない。で、そういうふうに思うと、一首がバラバラに置いてあるのは結構楽しいなっていうふうに思うんですね。で、そういうふうに取っていくと、楽しかったですという感想で終わってしまうんですけど、ただこれでいうと普通の状態、一首の状態で並んだものが対比として欲しいなと個人的には思う。で、それはなぜかというと要するに戯曲と台本の関係性みたいな形として、この配置になる前の連作の形もちょっと見てみたかったなというのも個人的には思います。そうすると試みに対して効いているか効いてないかという話ももう少し出来たかもしれない。