中島

 

 「水仙に盗聴」もありましたけれど、ああいう詰め込みのチキンレースをやり過ぎてポトンと落ちちゃうみたいなところもあるかもですね。そこで時間が押し気味というところもあって、ここで私の発表に移りたいと思います。遠野真さん。「ネガティブキュート」について簡単に触れさせてください。私、滝本さんの作品に比べると実は遠野さんの作品、そこまで読めたとはちょっと言い切れていないところがあるんですけれども、まず要素として、まず神様が非常に出てくる。そこの相似関係として宇宙と地球、神様と人の関係性と宇宙と地球の関係性があったりだとか、あるいは死刑執行人が出てきて、死刑執行人と死刑執行される人が出てきたりとか、ある種の巨大なものと小さなものが常に通奏低音として出てきている。もう一つ、補完するため読者に易しく理解してもらうためある種の人間関係、恋愛関係の機微みたいなものが、ある程度間に挟まれているのですね。そういうふうにまず読みました。そのモチーフとして描かれているものとして、誰かが死ぬとか爆死するとか爆発するとか燃える、冷える、溶ける、凍る、燃焼と凍結みたいなものも常にイメージとして出てくるんですね。で、そういうものがずっと通奏低音として出てきていて、これ、なんのためになされているんだろう、すごくわかりにくい。序盤特にわかりにくいなって思いながら読んでいて、終盤になってくるとなるほど神様というのはこういう位置にあるとか、なんとなく溶けていく像というのが、「溶けてゆきまた溶けてゆく方向へ像を動かす像の残りの」とかそういうある種の雪像、雪の像みたいな、像って別に細かく挙げてあるわけじゃないんですけど、溶けてゆく像みたいなものから雪像みたいな札幌雪まつりで作っているようなああいうものの像に近いのかなと一度想起した上で、更に人間自体が雪像、雪の像のように溶けたり崩れていくようなものとして、神様からは見えているんだろうなあという多分相似形として扱われている。で、そういう別にこれは明示されているわけじゃないですけど、私から仮説として挙げるのであるならば、これはキャラクターを使ったチェスとしての短歌の連作だったんじゃないのかなっていうのが一つの僕の仮説です。で、一体これを通じて彼が何をやろうとしたのかなというと、いわゆる短歌にいて私性を離れた人称はどこまで可能なのか。神様の視点はどこまで導入可能なのかということを多分因果的にやろうとして、神様ってものを語として入れることによって却って短歌全体の中で神様が描かれていないことの主体主語みたいなものにどこまで神様を想起させられうるのかということをやっているんじゃないのかなあと思っていたんですね。で、一つ作者が顔を見せているとして「演出はずっとなくならないし、もう十分遠く離れるしかない 花の調子は?」これもちょっと盛り込みすぎの歌なので成功しているかどうかというとちょっと別だと思うんですけど、かなり実は神様と人とか、いろんな相似関係の演出というものを明示的に示している一首なのかなと思いました。で、すみませんこれは自分の宣伝も入っちゃうんですけど、僕も結構同じことやってるよなあというのを読みながら感じていました。こんなところでまずご本人いないので簡潔に。非常にわかりにくい作品だと僕は思ったんです。だからむしろ、これこうだよとわかる人がいたら今日ここで聞きたい。というのが評者として投げっぱなしジャーマンな質問なんですけど、じゃあ主水さんに。

 

主水

 

 中島さんご自分で仰られていたように、読み切れていないというのは確かに今の話を聞いてちょっとモヤモヤしたので思って、神と人の話をした時、中島さん確か始めに巨大なものと小さなものと仰いましたよね。そこがちょっとあれ、甘いんじゃないかなと思って。神と人というのを考えた時に大小と、さっきでいうと量的なものですね、それと超越なのかどうかを考えないといけないなと思って、つまり質的に絶対違うものとして神を使っているのか、大規模なものとして神的なものを使っているか。神的というとちょっとやばいですけど。僕、多分これ超越的なものをどうやって扱うのかの話なんじゃないかなと思って、なぜかというと、爆発とかあります、爆発が結構出てきている、あと死刑が出てくる。死刑というのはやはり法の超越点なので、やっぱり否定神学ですよね、超越的なものをどうやって描き出していくかというところに執心していくのかという、それは一番初めの「それ以下の単位がないしそれよりは短く出来ない」という一定以上小さくできないという美学でいう崇高ですよね。だから、ずっと美学ワードで言っちゃうんですけど、崇高と美の話、崇高って一定以上大きすぎてどうしようもないものと、人間サイズで扱える美的なもの、カント、バークあたりの(編集者註 イヌマエル・カント、エドモンド・バークのこと)18世紀くらいからあって、その崇高なものをどうやって遠野さんが扱っていくのかなと思っていて、爆弾とか宇宙とかそういうもの、基本的には神様は超越的なものなのでアクセスして描くことはできないというのがベースに作られていて、それでレトリックでどう詰めていくかという話なんだろうなあと思っていて、ただ一首一首のアプローチがかなり違うので、まとめて短時間で読むのは厳しいなあというのが主観です。

 

中島

 

 ありがとうございます。確かに、私が大小という量的な話をしたのは良くなかったですね。超越性、崇高性という語でいえば確かに非常にわかることだと思います。堀田さん。

 

堀田

 

 遠野さんは、確かに難解に感じるというのはあって、レトリックと言うより文体が問題で、最後の結句のところで、意味ありげだけどなんでこれを言うのというのがほとんどで、そこで意味がわからなくなるというのがほとんど、「この時をずっと待ってた憎しみが成就し」と来て「それを振りおろすのを」と急に言われたら、「それ」ってなあに、「振りおろす」ってどういう状態? っていう疑問が浮かぶわけです。で、例えば「疎遠になるのは重なっていると誤解したから、でもそうでなければ?」といきなり言われる。「最初からずっと会い続けていた そんな距離の話 地球は丸い」で終わっていれば、非常によくわかる。けれど、「運の尽き」と、そうすると読者は一瞬もしかしてこの人を理解していないんじゃないか、何が言いたいのってポッと浮かぶんです。「溶けてゆきまた溶けてゆく方向へ像を動かす」これはよくわかる。けれど、「像の残りの」ってあるとこの「の」は何なのか。これは全部、ほとんどそういう作りになっている気がしました。

 

中島

 

 そうですね。一首レベルでちょっと詰めきれないので、というのはあって、その「振りおろす」ものってのも、ある種の死刑執行人と、あるいは超越的なもの、何かしらの影響を最後に及ぼすと想像はできるんだけど、確定はできないですよね。秋月さん。

 

秋月

 

 内容のことだったり語り口のことではなくて、これ作者名がなかったら割と女性だと思って読む人が多いんじゃないかなと思って、今も(堀田)季何さんが仰る「像の残りの」みたいなの「の」は語っている口調を出すための「の」という効果を持つんじゃないかなと思って。だから、戻っちゃって、伊舎堂さんの(吉田)ダヤさんが『手紙魔マミ』を出してきた時の男性の口語のバリエーションって実はない、それで、伊舎堂さんはどちらかというと男、男の子っぽい喋り言葉を取り入れようとしていて、遠野さんのは遠野さんという作者の中の主体が距離があるじゃない。遠野さんの語り口というのも非常に独特だなと。

 

中島

 

 僕も、「さなぎの議題」という短歌研究新人賞を受賞作が補助線にはなるかなと思ったんです。で、あれもあれである種匂わせることが比較的成功した事例だと思うんですけど、でもやっぱり読み切れない。それが問題だっていうところも魅力的だって捉えるところもあったんじゃないかなと思うんですけど滝本さん。

 

滝本

 

 はい、わかりました。全然違う話題になっちゃうんですけど、結構感覚的なことになりますけれど、ちょうど中島さん、私と遠野さんを扱っていただいて、私の方はエロティシズムを扱いましたけれど、彼は、遠野さんは扱っていないけれど断然エロいというか危険な香りがすごくするんですよね。で、私の方はある意味正当なエロなんですよ、自分で言うのもなんですけど。こっちは、もうちょっと、その、陵辱というかある意味なんでそう思うかというと人体を破壊するモチーフが出ていて、人体を破壊と一方で、そこに世界を創造するとか、どこかに神様と人間というものよりはもう一歩宇宙とか世界を創り上げてそこを作ったら壊しというのを何回もするというか遊びみたいなものへの憧れというか幼児性からくる、破壊とエロというものかもしれませんけど、そういうものが通奏低音としてずっとあって、先ほど中島さん仰った燃焼と凍結というのも多分そこに関わってくると思うんですよ。で、人体の破壊というのを私、全面に感じてしまってそのぶん内容に一個一個入っていけないというのと、あと言葉の使い方がいい意味で気持ち悪いというとあれですけれど、何か独特な気持ち悪さがあって、それはぶよぶよしたというか何か細胞とか原形質を見せられているという肉体をそのまま切られている、それこそ、腕を切られてそれを出してというよりも、腕をこう切って肉を見せられているという、言葉が言葉になる前の詩の言葉になる前のもっともやっとした塊を見せつけられているような気がして、それが遠野さんのアリバイだと思うんですよね。ちょっと別の話になっちゃいますけど、前、朗読会やった時に、遠野さんがこれをすべてパソコンに打ち、何かのソフトに打ち込んで、それを機械が音読する。それに対して彼がフーコーの『監獄の誕生』か何かを読むというかなり気持ち悪い演出をしていて(笑)ただ、それはこの世界とすごく合っていると今でも思いまして。私は補助線としてそれを考えていました。

 

中島

 

 それは、僕、聴けなかったのですごい残念で面白そうですね。

 

滝本

 

 空気がおも〜くなっていくんです。その空気の重さというのは遠野さんが作りたかった、もしかしたら歌の中で作りたかったもう一個の世界、壊したかった世界かもしれないですね。

 

中島

 

 なるほど。ありがとうございます。評者である私がすごい勉強させてもらってる。

 

山﨑

 

 ボーカロイドって結局、人間が操作をして歌を唄うように操作をして調教というんですけど、ところが本当に好きな人はボーカロイド自身の性格やある意味人間性を見出している。そうすると一人称である短歌を、どこかもう一つ一人称である短歌の像を作って、遠野さんの作品の中で作っていると、操作をしていると、そういう感じがします。そこが神様という絶対的崇高的なものに対するある種の操りみたいなもので、作り上げている感じがしました。

 

中島

 

 ありがとうございます。ここで、前半戦終了と、させていただきたいと思います。