滝本

 

 はい、ありがとうございます。一つポリフォニー的なものを楽しめるかどうかというのがいっこ大事に関わってくるというのがあります。一旦それぞれ出たところで、次に行きたいと思います。では伊舎堂さん。

 

伊舎堂

 

 最後のレジュメをお願いします。山﨑さんのですね「ナターシャと私」そうですね、まず言いたいのは九首目の「正しさの立証のため」。中島さんの連作の後に取り上げちゃうとインパクトが薄らいじゃうんですけど、この「正しさの」というこの一首が入っている連作だよね「ナターシャと私」、もといWintermarktってなるくらい俺は技ありの一首だと思いました。一首の中に他者とか瞬間とかを入れたらかっこいい何かになるのかなあと思ってるんですけど、それの最新版の技なんじゃないかなって思うってのがあって、この一首の中に正しさを大きくした主水さんがいる。山崎さんが歌い手、で他者として編集人の主水さんが取り込まれているというところで、これはびっくりしたし、一回しか使えない技を使った一人目は褒め称えた方がいいわけですね。それでこの九首目は技ありというふうに書きました。不幸な点としては、これが秀歌として流通することはまずないわけですよ。短歌年鑑とかに引かれたりとかはまずないわけですね。方法を鑑賞するしかないわけですよ。正しさが大きくされている歌だから大きさがどうだとか、なぜ正しさが大きくなっているのかとかそういうふうに、方法を鑑賞するしかない。三つ目が内輪ノリ的に受け取られかねないのかなこれは全然伝わることだと思うんですけど、主水さんって誰だよっていう人にもこの短歌触れるかもしれないわけだし、そこでは弱まるんだけども、俺は主水さんを知ってるしこの短歌連作のコンセプトとかわかるから、びっくりできたというから内輪なんですね。で、それ以外の短歌、「正しさの立証のため」が割とびっくりできたから他の短歌に関しては結構緊張感が緩んじゃったというか、結構大掴みに評をしているかもしれないけど申し訳ありません。次の、「脈絡のなさのために」とあるんですけど、引いてある歌だいたい見てもらうと、わかるかなと思うんですけど、「あのときのあれ今どこにあるだろうあれはあげたよわたしに 好きだな」という指示代名詞ですか「あの」「あれ」「どこ」の多用とか、「わたしに」の離人称的なところとか、「お前」なのに「わたし」の感じがしないとか、場面とか思考が断絶している十九首目「暗転のあとに明転暗転のあとに明転」あっ、なんか裏方してんのかなと思ったら「孫の名前は大喜に決めた」というところへの脈絡のなさとか。言葉の響きとして存在しないだろうという「ルロローン」を使ってる二九だとか。脈絡をつかませないための書きぶりが徹底しているという脈絡が読めるわけですよここに。で、そこに楽しさがあるわけですよね。だけど相聞歌と雑に言っちゃいますけど恋人同士の甘いやり取りにおける脈絡のなさとして読むと「真夜中のルロローン」だけのメールとかは、なんかいちゃついてる感じの読解になっちゃうというところの、それは逆にそう思ったお前が悪いと言われるとそうなんですけど、なんか相聞歌としても読めるコードを入れてしまうと、矮小化が起きるのかな、脈絡のなさに。その辺りの痕跡を消された連作だともっと凄みが増すのかな「正しさの立証のための」技ありの一首以外の歌として読まれないというかもっと強い歌になるのかなと思いました。で、三つ目の特徴として破調の歌がガンガン出てきますね。フラワーしげるさん的なと言っちゃいますけど、なんか結論が出たんです。なんで俺、破調の歌に対してそんなに熱くなれないのか、こんなに尖ってるのになあと思ってたんですけど、それ山﨑さんの「ナターシャ」で結論が出たんですよね。伝わるかわからないまま話すと三首目の「福引きの一等賞の米であることにこのたびさせていただけることになりました」で次の三十首目「すこしだけうれしくなった若者たちは明日の明け方にはスクランブル交差点に集まるでしょう」というのもあって、なんだろうな破調だからいっぱい言葉を言っているはずなのにこのことしか言ってない一首になってると思って。だから若者たちが少しだけ嬉しいっていうこと以外想像の余地がいかないわけで、明日の明け方にはスクランブル交差点って言ったら渋谷の109とかのスクランブル交差点だって思いうかぶんだけど、57577の時の言葉よりも情報量が少ない気がするんですよ。全部言ってしまったこと以外の言葉がないと読めるってのは破調の歌が引き受ける宿命なのかなって感覚的に捉えたところで、最後にライムスター宇多丸って人の映画評で言ってたことを思い出されたんで引用してそのまま読みますね。「セットのいろんなところをアップにしてね、撮ってるんですけどね、」「それをやればやるほど、あぁ、今 目に見えてるところが全部なのね、って思っちゃうんですよね」「それさえやらなけりゃ、カメラの外にも広がりがあるように思えるのに!」って「ニセ札」っていう映画の評で言ってたんですけど、ここら辺重なるんでパクってっていうか持ってきました。なんかセット。「ニセ札」の監督は「ニセ札」が第1作目だったんですね、映画の色々慣れてないところがあって、反面教師的に楽しめるって映画なんですけど、和室のセットなんですけど、障子をアップに撮ったりだとか、パッパッパと撮って撮ったところが全部だから画角が狭いっていうんですか、すごい息苦しいシーンになっちゃってる。それしなきゃもう少しリラックスして観られるのにっていう例えとして宇多丸さん言ってたんですけど、破調の歌に対する感じとすごい似てるなって、全部言っちゃうって狭さを感じるっていうのは不思議なことだなと思ってそれを「ナターシャと私」の、読解として提出します。以上です。

 

滝本

 

 はい、ありがとうございます。先ほどもそうですけど伊舎堂さん結構自分の中の評価基準を強く持っている上でのアレなので聞いていてすごく面白くて、特に最後の破調の歌に対してはなるほどなと思うことが多くて、ここのちなみに、宇多丸さんの引用というのは、全体というよりは破調の「すこしだけうれしくなった」っていう歌に対する注釈みたいな引用ですか。

 

伊舎堂

 

 そうですね。

 

滝本

 

 わかりました。あと、そうですね、九の「正しさの立証」以外の歌の緊張感の緩みみたいなのをされていたのですが、これは歌の連作としての緊張ということですか。

 

伊舎堂

 

 そうですね。

 

滝本

 

 あと、緊張感の緩みと脈絡のなさというトピックのここに挙げたことこの二つってある意味ネガティブにも捉える評価基準なんですよね。脈絡のない歌ってのも人によっては悪く取るかもしれない。そこに対して伊舎堂さんもう少しどういうふうに捉えているかを仰って頂ければ。

 

伊舎堂

 

 レジュメ作った関係、さっきの二三川さんとからめるんですけど、二三川さんのパワーワードのことでも言ったんですけど、嫌なパワーワードがないんですよねこの中。で、僕の中の価値観です。脈絡のなさよりはパワーワードの方が嫌だな。なんか脈絡のなさは許せる。ってところで読んだってのがあって、何て質問でしたっけ?

 

滝本

 

 脈絡のなさをポジティブに取るかネガティブに取るかって、ポジティブに取るとしたらどういうところで評価するか。

 

伊舎堂

 

 そうですね。相対的な言い方になってしまいますけど、この方が良いって言うんですかね。パワーワードよりは。

 

滝本

 

 あんまりパワーワードでポンポンとほうり投げるよりも、それよりもちょっとふわっとしてるかもしれないけど、こういうふうに。多分、先ほどの破調の方のそれだけの情報に対して、脈絡のなさってある意味余韻の方に通じると思うんですね。余韻が脈絡はないかもしれないけれど何かしらの雰囲気や余韻は出てくるかもしれない。もしかするとそこが想像の余地かもしれない。ありがとうございます。確かに脈絡のなさと挙げられて見てみると脈絡はないですよね、ない一方で私は山﨑さん本人を知ってる、知ってるというか話すことが多いんですけど、そうするとこの脈絡のなさは彼の会話そのままだとある意味。中島さんがすごい頷いてらっしゃる。なんとなくスッと入ってくるところはあるんですけれども。そうですね、では安堂さんなにか意見は。

 

安堂

 

 脈絡のなさと今皆さんが仰られた中で思ったことは、私も読んでいてすごく感じて、私の勉強不足かもしれないですけど、脈絡なく、読もうとしたことをぶらされることによって本当はあったことであろう本意みたいなものをうまく読み取れなくて、次読んだら読めるかも、次読んだら読めるかもと思って一首ずつ読んでいくんですけど、でも結局最後までうまく本当に言いたかったことみたいなのを私は読み取れなくって、でも脈絡のなさの良し悪しというか、感覚的な言語表現というか、天邪鬼さみたいなのは読んでて短歌をやる姿勢として、わからなくもないというか、そうなることもあるよなって、思ったので、読もうとしてもどんどんブラされていって、ドキドキしたけどそれはそれですごく楽しく読みました。

 

滝本

 

 今のご発言だと視野をぶらされるというか、視野をあえてこういうふうに読むかと思ったらここで揺さぶられてちゃんと焦点が合わなくなってしまう。多分これが、脈絡のなさの一個ポジティブな点だと思うんですよね、それを楽しめればですけど。ある意味肩透かしを上手いようにかわされてそれが一個技ありになる場合もあると。小説になっちゃいますけど木下古栗さんという方がいてこの人は完全にブラシまくるんですよね。そういう意味で楽しさというのは確かに騙されて楽しいというのはあると思うんですけど、その辺を受けて土井さんなにかありますか。

 

土井

 

 そうですね。悪口みたいに聞こえちゃうかもしれないですけど、最近ツタヤ図書館がダミーの本を税金でたくさん買ってったって。なんかダミーの短歌みたいな感じがするかもしれないなって。ダミーっていうと本当に見せたいものがあって、ダミーにわざとダミーのものを入れ込んでおいて、主のある意思に導くみたいな、意図が感じられるかもしれない。そうするとそもそも山﨑さんはこの雑誌の主宰みたいな立場だったし、これをやりたいが為に色んな歌人をわざと巻き込んでギリギリの短歌とかつけてやったんじゃないかなと夢想してみたくなるくらい結構全体が仕掛けとして効いていて、雑誌全体を見るとギリギリの短歌ということで色んなことに挑戦してる人いるんですけど、なるほどこれがギリギリということなのかと妙に納得するところはあるなと。

 

滝本

 

 ありがとうございます。つまり我々執筆陣はダミーということで。

 

会場

 

 (笑)

 

滝本

 

 ダミーの短歌ってのは見せたいものが一つ確実にあってそのために他の煙幕的に他のものを配置して、そこをクローズアップするということなんですよね。で、私の隣のわかるわかるという伊波さん。

 

伊波

 

 本自体をメタ化しちゃうということですよね。ちょっと全然違う話していいですか。脈絡のなさについてなんですけど。伊舎堂さんもそういうところ強いと思うんですけど、我々の生きている現実世界のディティールに対する愛着が強いと思うんです山﨑さんって。で、日常会話って脈絡なかったりするじゃないですか。その部分をデフォルメしてるんじゃないかなって思ったんです。デフォルメして過剰にすることで脈絡ないよねっていう日常会話をクローズアップしてるのかなと思いました。で、「正しさ」問題に移るんですけど、例えば本自体メタ化しちゃうんだったら、三十首全部これだったらよかったんですよ。ここに一首だけこれが入ってるから、ちょっと成立してないというか、全部これにしちゃうか、逆にこれ入れないかだとよかったのかなと思いました。

 

発言者不明

 

 全部これにというのは内容をということですか、方法を?

 

伊波

 

 いや、全然そういうわけではなくって、例えばですね寄稿している他の人物、例えば伊舎堂さんとかを出してきて、伊舎堂さんの歌こうだよねというのを、中で書いちゃうとか。

 

滝本

 

 つまり、全員の執筆者が表れる歌?

 

伊波

 

 そう。要は徹底的に内輪ネタということです。

 

滝本

 

 なるほど。そういう技もあったんじゃないかということですね。

 

吉田

 

 んーどうでしょうかっていうところを喋ってもいいですか。えっと「正しさ」の歌に関しては僕はスベっていると思うんです。で、他の部分で言うと、脈絡のなさというのは、一首の中で衝突ができる回数が増えるある種の豊かさがあると思うんですね、どこか切り取ってもなんとなく面白がれるフレーズがあるくらいな読み方でも楽しめるかな。それが一首としてどうかは別として。ていうところで、読めるんだけれども、手法としてこの「正しさ」の歌だけやってることが違う。この手の出オチって、思いついたらやりたくなっちゃう気持ちはすごいよくわかるんです、ただそれは連作全体の中ではノイズじゃないかなって思う。片や主水さんのテキストの四首分のテキストはそれを入れた勇気みたいなのがあると思うんですけれども、「正しさ」の歌に関して言えばこれを入れない勇気というのもあるよねっていう。思いついたことを片っぱなしから入れなくてもいいんじゃないかなってところで、この話題は技ありかもしれないけれど、出番は本当にここでよかったのかなっていうのは疑問です。

 

滝本 

 

 一つは思いついたことをすべて入れる権利というのは作者にあるのかっていうちょっとどこかで感じてしまいます。出オチという表現がすべて語っていると思うんですけれども、そういう意味で吉田さんは連作全体の中でこの一首がある意味ノイズに作用されてしまっているということで、伊舎堂さんはこちらを技ありと見ているので、むしろ他の方が緊張感が薄れているんじゃないかって、ある意味見る所は同じなんだけど逆になっていると。

 

主水

 

 伊舎堂さんと吉田さんで評価ポイントがひっくり返っているんですけれど、いずれにせよこの一首が質的に他と違う。だから伊波さんはむしろこれで統一した方が読みやすいし、作品として屹立するんじゃないかっていうそれはすごくわかるんですけど、もう一点、逆にこれを混ぜてしまうっていうのは、ギリギリと言っていいのか微妙ですけれどでもそれなりのアプローチはあったと思って、何故ならばその次に作中主体をキーポイントにしている歌が「正しさ」の歌の次にあるんですよ。十首目ですね、それに対してWintermarktのテキスト外のことを知らなければ読みが絶対不完全になるような歌がある。それ以外はだいたい歌の世界の中だけで閉じることができる。作中主体という言葉、特にメタフィクショナルだと思うんです、でこの場合に出てきているのもメタフィクショナルで、メタフィクションを入れることは結局いいのかどうかっていうのは今日幾つかの作品で出てきていると思うんですけれど、単純にメタフィクションを閉じてしまうと、数学的な話になっちゃう。これはメタフィクションでメタフィクションをやろうとしたんだねっていう100年くらいやらされている話になってくるんですけれど、だから僕は全部に冒頭名前があって、伊舎堂さんの名前があって、伊波さんの名前があって、っていう歌にしないほうがいいと思うんです。それをやると閉じたメタフィクションになってしまう。だからそれと普通のそれ自体世界観を持っている短歌を並べてしまうことでメタフィクションに風穴を開けたほうが、もう一回メタフィクションという伝統的なやり方の、リソースが使えると思うんです。僕の名前が出てきて、作中主体という名前が出てきて、背広の男が出てきて、ナターシャという固有名が出てきて、それを並べるということは、成功しているか言われるとちょっとチャレンジングすぎてバランスは悪くなっていると思うんですけどアプローチとして評価はした方がいい思う。それこそこの雑誌としてはいいんじゃないかなとは思います。

 

滝本

 

 はい、ありがとうございます。それでは最後に西巻さんなにか。

 

西巻

 

 まず三点ここに出たと思うんですけど、「正しさ」の歌の評価と、脈絡のなさについての話、ここにあげられなかったことで一点。結構脈絡のないって冗談みたいなある種そういう歌に見えて意外と作者の目線というのは、ハードボイルドなところを結構突いているかなというのはあって、例えば「恋泥棒はサフランライスを食べている革命も変わらないのも嫌だろ」というこれ、現実の政治にコミットしているわけじゃないんだろうけれど、現実の政治に対して歌っているところがあって、「濡れティッシュ大会敗北の責任を取ることにする政府すべてで」この政府という言い方も、現実の政府のことかなと思ったり思わせたりするところがあって、そういうところが割と言葉遊びだけで終わるのかなというような歌をそうでないところに引き戻そうとしているような、歌の後半あたりからは王様の歌とかかなり破調でこれはどうかなという歌もあるんですが、ただそれが作者のハードボイルドさの目線を担保しているような気がしました。